今から約20年前の当時13歳で中学生の頃の話です。

当時、地元のボーイスカウトに所属しており、基本的に月に一度は訓練キャンプという行事があったのですが、年に数回レクリエーションとしてサイクリングや地元のお祭りに参加する事もありました。そんな中でも待ち遠しかったのがスキー合宿です。毎年長野県の栂池高原にバスで2泊3日で行くのが恒例でした。1998年当時はまだ今とスキーヤーとスノーボーダーの比率が真逆で、今に比べて圧倒的にスキーをする人が多かった時代です。普段は厳しい指導者たちも、その時だけはいつも夢中になってスキーに熱中していました。各スキー場が徐々にスノーボード教室を始め、それまでスキーの経験しかなかったのですが、この機会にチャレンジする事にしました。

教室は午前中はリフトに乗らず、緩やかな斜面を利用し基本的な動作を覚えます。そして午後からはいよいよリフトに乗って実際にゲレンデを滑走します。小学校6年間スキー経験があったためか、板を履いて滑るということに抵抗がなかったので、予想以上に上手くいき、他の下手な参加者を見て

「なんでこんな簡単なことができないんだろう、それに比べて自分はセンスがあるな」

などと、完全に調子に乗っていました。無事に教室を終えて、すっかり滑れる気になると当然無茶をしたくなるのが中学生の性です。ゲレンデの端の方はあまり整備されていないので、ちょっとしたコブを見つけてはその上を滑り

「今ちょっと浮いたぞ!」

なんて浮かれていました。上手くいくともう止まらず、徐々に大きなコブを見つけてはジャンプを繰り返し、目指すコブはどんどん大きくなっていきました。そして次の瞬間、目の前にあったのは明らかに行ってはいけない落差のある崖でした。飛び出した瞬間にバランスを崩し、体が頭が地面を向き半回転状態。そのまま手首から真っ逆さまに落ちて次の瞬間

「ボキッ」

という音とともに地面に叩きつけられました。その瞬間、「あ、折れたな」と確信しました。生憎そこは、ゲレンデの端で、他のスキーヤー、スノーボードがほとんど滑らない場所で、時間ももうすでに午後3時を回っていたため、徐々に皆帰り出す時間帯でした。当時3月だったということもあり、ウェアの下にはパーカー1枚だけという、軽装だったので、一度滑るのをやめると猛烈な寒気が襲ってきます。まさかの昼間のスキー場で凍死?ということが頭を過ぎりましたが、数百メートル先にはレストランなどが見えています。

しかし痛みとショックで立ち上がれずそのまま、うずくまること数分間が経過した後、たまたま雪遊びしていた親子のお母さんが気付いてくれ、すぐさま

「すみません、そこから落ちて骨が折れました」

と訴えすぐに救助要請をしてもらいました。しばらくするとゲレンデではおなじみのスノーモービルのサイレンが徐々にこちらに近づいて来ます。なんとかスノーモービルに乗り、そのまま診療所へ直行しました。

待合室について驚いたのが永遠に終わらなさそうな診察者の数、まさかこんなに自分と同じくらいドジな人たちがいたなんて夢にも思いませんでした。そして痛みに耐えながら30分が経ち、1時間が経ち、2時間が経ち、ようやく痺れを切らし始めた3時間後、ようやく診察室へ通されました。

お医者様に

「どうされました?」

と聞かれましたがかなり食い気味に

「落ちて骨が折れました」

と症状を訴えるとおもむろに折れた手を掴み

「骨がずれてるから、もとにもどしましょうね」

といわれぐいぐい折れた箇所を引っ張られました。その瞬間待合室どころか、診療所の外まで響く叫び声をあげて失神寸前でした。そうするとお医者様は、

「はいオッケー」

といいあとは看護師さんに任せそのままギブスをつけてホテルまで帰りましたその夜は痛みでろくに寝ることもできず、本当に辛い1日でした。翌日、窓からゲレンデに行く他の隊員たちをベランダ越しに見て、本当に情けなかったです。

その後は地元の整形外科に行って、ギブスを外して再度診察をしてもらったのですが、そのお医者様にも

「まだずれてますね」

といわれた瞬間、あの光景がフラッシュバックし、全身に脂汗が吹き出しました。

「大丈夫、脇の下に麻酔を打ちますから痛みはないですよ」

といわれて、打たれた麻酔がまず痛い、そして麻酔が効いたのでといわれ、また同じ方法で腕をぐいぐい引っ張られました。その時も前回同様、待合室に響き渡る声で叫びました。なんとか無事にほぼ正常な状態に整形してもらいました。その後は週に2回ほど通院し、レントゲンを撮って経過を見ましたが、当時、自転車を利用していたので自転車に乗れず、通院が本当に不便でした。学校へも徒歩で約1時間かけて通い、また部活にも参加ができず先輩たちからは、白い目で見られたのがたまりませんでした。約1ヶ月半ほどしてギブスを撮った時には、当時50あった握力が15まで低下していたのはびっくりしました。その後はテニスボールを握るという非常に原始的なリハビリ方法で握力を戻していきました。また骨折した手が利き手だったのでご飯も筆記も本当に大変でした。しかしまだ学生だったということもあり医療費も国民保険だけで済ますことができたのは、不幸中の幸いでした。

会社員の今、パソコンで仕事を日常的にしているため、同じような事故を起こしたら、と思うとぞっとします。それ以来、スノーボードの際は必ず手首のプロテクターを欠かしたことはありませんし、もちろんコブは飛ぶものではなく避けるものだということもしっかりと学習しました。