わたしは現在26歳で、コールセンターに勤務しております。これから話す実体験は、わたしが中学生だった頃の話です。

小学三年生から野球部に入部し、その流れで地元の中学校でも野球部に入部しました。そこは、野球で名を馳せているような有名校でもなければ、有能な選手が集まるような強豪校でもありません。中学二年生から少しずつ試合にも起用されるようになり、中学三年生にはレギュラーを獲得していました。そして軟式中学野球最大のイベントである中体連が間近に迫っており、わたしたち三年生をはじめ、下級生も一団となって日々の練習に熱を込めて取り組んでおりました。その日も、部活動の練習を終えていつものように帰り支度をしていました。すると、仲良くしていた野球部の同級生や後輩達から声をかけられたので、途中まで一緒に帰ることにしました。その時は4,5人で帰っていたと思うのですが、後輩の家は中学校まで自転車通学をするぐらい離れており、わたしと同級生は徒歩で通える距離だった為、自然と後輩は自転車を押して帰るような形になりました。

普段は徒歩で通っているわたしや同級生は当時自転車通学に憧れを持っており、後輩の自転車を拝借して二人乗りをすることになりました。わたしたちが通う中学校は田舎の小高い丘の上に建っていた為、毎日毎日200mぐらい続く坂道を登って通う必要があります。普段帰る時はもちろん行きも帰りも徒歩ですが、その時は憧れの自転車で二人乗りで坂道をくだろうと楽しくはしゃいでました。これが失敗でした。

大人になった今では危機管理能力の発達により、最悪のパターンまで想像した上で慎重に行動するようになりましたが、その時のわたしたちにそんな能力はありません。欲望のままに自転車にまたがり、普段絶対にしないのですがわたしはなぜか荷台に乗り、同級生がハンドルを握り運転する状態になりました。坂の一番上から颯爽とスタートしたわたしたちは大声を出しながら坂道をくだり始めました。その時がくるのは意外と早かったのです。

20mを過ぎたあたりから同級生が握るハンドルが少しずつ左右に揺れ始め、数秒後にはその揺れがどんどんどんどん大きくなっていくのです。その揺れがピークに達した時、自転車は真横を向きその勢いでわたしは地面に投げ出されました。とっさに受身の態勢をとったのですが、無意識に右手で自分の体を支え、ごろごろと少し転がったところで止まりました。

すると途端に右手首に激痛が走り瞬間的に

「やっちまった」

と悟りました。すぐに冷水で冷やしにいくとみるみるうちに手首は晴れ上がり、少し動かすだけで激しい痛みに襲われました。周りにいた同級生や後輩達の顔色の変わりようは今でも鮮明に記憶に残っています。そして後輩に借りた自転車もぐちゃぐちゃになってしまい、走行なんてとてもできる状態ではありませんでした。わたしたちはすぐにそれぞれの親に連絡をとり、わたしと同級生は痛みをこらえながら近くの病院に駆け込みました。

同級生は骨盤あたりの骨に軽いヒビが入っており、わたしは案の定右手首の骨折と診断され、その場でギブスをはめて帰宅することになりました。これが中体連の1ヶ月前の話です。当然部活動の顧問の先生や両親からもこっぴどく怒られ、意気消沈となっていましたが、一番はやはり中体連に参加できないと悟った時の落胆が大きかったです。ただわたしは諦めませんでした。

骨折後はサポートメンバーに加わりながらも「代打でもいいから試合に出たい」という一心で少しずつリハビリを行っていました。ギブスをとって文字を書いたり、箸でご飯を食べたり、とにかく普段の生活ができるようになることをまずは意識していました。そして自分で言うのもなんですが賢明なリハビリと主治医のアドバイスのおかげで数十mぐらいのキャッチボールができるぐらいまで復活することができたのです。顧問の先生からは無理をするなと注意されましたが、そんな言葉は右から左になっていました。そして骨折から1ヶ月後、とうとう中学野球最後の夏を迎えることとなりました。

やはりレギュラー復帰とまではいかず、ベンチスタートとなりチームは最後の攻撃の時点で3点ビハインドで負けていました。これはよくある話ですが、負けが濃厚になると思い出作りのために三年生の代打攻勢が始まります。わたしもその一人でなんとか代打で出場することができましたが、凡打に終わり、そのままチームも負けてしまいました。負けたことも悔しかったですが、自分の責任でチームに迷惑をかけたことや100%の力を発揮できなかった不完全燃焼に対する気持ちが大きかったです。

あの時の悔しさ、無念さは一生忘れることはないと思います。これからは何事にも慎重に選択しながら日々を過ごしていこうと思います。