今は40を目前に控えた一児の母ですが、15年以上前の22~3歳の時に、週末に人生初のアイススケートに挑戦しました。

案の定すってんころりん。かわいらしく転んだものの、両腕でおかしな着地をしてしまった覚えがあります。翌日は通常通りに出勤。都市銀行の窓口テラーとして、目線の高さのカウンターにカルトン(現金をのせるトレー)を上げ下げしていると、早々に違和感を覚えました。左腕が痛みのため上がらなくなっていました。けれど昨日のスケートで筋肉痛にでもなったかな、スジを痛めたかな、と軽く考えていました。

それがお昼を過ぎる頃、左腕に痛みと共に熱感が出てきて、痛みに気を取られ頭がぼーっとしてきます。それでもスケートの疲れだと思い込んでいたので、週末の遊びで痛くなったことなど勤務中に弱音を吐けるわけもなく、最終的には右手だけで窓口業務をやりきりました。夕方、さらなる違和感を覚えました。制服の左腕が窮屈にひきつれて腕を動かせなくなっていました。患部が腫れていて普段の倍近くの太さにまでなっており、制服の袖に収まりきらないほど赤く腫れ上がっていました。腕の太さが異常さを物語っていて、周りにいた同僚たちから悲鳴が上がりました。私は痛くて悲鳴を上げるどころではなく、歩いても座っても腕が痛くて、その場から動けませんでした。

その時点でさすがに上司も気がつき、隣接する整形外科に駆け込みました。結果、左腕ひじ関節の剥離骨折。骨の末端(丸い部分)からカケラのような骨がポロリとはがれ落ちていました。人生初のアイススケートで人生初の骨折。

レントゲン撮影では痛めた左ひじを伸ばすよう言われ激痛を伴い、ずっと半べそでした。画像を見せられ説明を受けましたが、あまり詳しく見てもらわずにすぐ「骨折だね」と診断されました。診断が出た後も、ギブスを作るためにかなり長い時間を院内で過ごしました。リハビリ担当の先生(医師ではない)がギブスの材料と道具をそろえてくれて、L字型のギブスが左ひじにどんどん作られていきます。当時は、お湯で柔らかくなる特殊な素材を固定部位にぺたぺたと貼り付けていくギブスで、冷めてくると堅く固まる素材で出来ており、何重にも重ねてぶ厚いギブスが作られていきました。

その間、ギブスを作ってくれている先生は銀行の制服姿の私に、あれこれ質問してきました。

「うちの並びになる都市銀行さんだよね?」

「たまに利用してるよ、外為とか」

「帰りは遅いの?」

世間話から始まりましたが、ギブスを作るのにけっこうな時間がかかり、先生の質問はどんどん踏み込んだものになってきました。

「窓口にいる田中さん、彼氏いるの?」

「外為の佐藤さん、美人だよね」

「今度さ、飲み会セッティングしてよ」

こちらは痛みと不安で涙ぐんでいるというのに、この人は合コンのことで頭がいっぱいなんだ。そういえば見た目も少し派手だし。なんだかとても疲れた初診日でした。

飲み会の話に乗り気でない私はかなり感じの悪い対応をしていたため、合コン先生はそれから数回窓口に来店しては私を呼び出して、他の美人行員の先輩たちとどうにか接点を持てないかとしつこく言ってきました。

こんな人にリハビリしてほしくない!と思い、地元の別の病院に通うことにしました。骨折してからかなり日数が経過していたため正確なレントゲンも撮ることが出来ず、そこの先生の診断もあまりはっきりとしませんでしたが、信頼して通院することができ完治しました。その病院の先生には、骨折はリハビリが大事だから毎日ちゃんと通わないと治らないよと言われ反省しました。

初診の病院に通院することに拒否感を持っていた私は、ほとんどリハビリに通わなかったので、完治まで時間がかかったのかもしれません。痛い思いもして、失礼な男性と知り合うきっかけとなってしまった骨折でしたが、当時契約したばかりの保険に骨折の特約がついていたため、給付金を受け取ることができました。国内大手生保の生命保険にケガ特約として付帯されていたもので、一時金10万円が出ました。

何に使ったかは覚えていませんが、会社に迷惑をかけたお詫びとして社内のみんなにお菓子を配った記憶があります。遊びに出掛けて骨折し、それ以降の仕事に大きな影響を出してしまったことは、新人社会人の私でもさすがに気まずさを自覚し、骨折が治ってからは以前より真面目に仕事に取り組むようになりました。

それから5年間くらいは、左腕はまっすぐ伸ばすことはできませんでしたが、さらにそこから年月を経て今ではすっかり伸びるようになりました。軽度の骨折でしたが、そこからいろいろなことを学ぶことできました。もうあの痛みは経験したくありませんが、骨折してしまったことで周囲の優しさや自分の未熟さなども認識することになり、成長するきっかけになりました。